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雨の役割 (完結作品)

作: かんばら

 少し古びてきた自分をちょっと違う段階にシフトしたいと願い、そのためにささやかな勇気を奮う人をそこかしこで見かける。そんな、心地よい日差しに身も心も輪郭を忘れそうな季節は、迫り来る熱の気配を真っ先に感じ始めた背中の汗とともに、もうすぐ終わろうとしている。
 陽も長くなり、5時といえどまだ十分に明るい空の下、既に先の見えた大学生活の何でもない一日を終えた私は、自転車のサドルに跨りゆっくりと校舎を後にした。季節に似合わず夏日だったらしい今日も、あとは帰宅するばかりだ。
 身分を一新した私の春は、淡い期待に反して予想外にも、あるいは望んだまま予想通りに、恙無く霞んでいった。シャーペンの芯がいつの間にか新しくなる様に、私の生活は色を変えることなく受け継がれたのだ。
 山を迂回する様に駅へ向かう私は、大体の場合何も見てはいない。時々風を切る音を挿みながら流れてくる歌詞に、ぼんやりと意識を傾けている。微かに濁りのある声で叫ばれる「悲しい」をどうにも辛く感じてしまうのは、何もかもを持てないままの今を嘆くだけの気概が、まだ私にも残っているからだろうか。
 遠くで視界を陰らせた雲が近づいていた事に気付いた頃には、まつ毛から零れた一しずくに頬が濡れていた。お気に入りを壊してしまわないよう、足を止めイヤホンを外した。
 夕立ちというには穏やかに過ぎるその雨は、サラサラという音を沁み込ませながらアスファルトを静かに叩く。国道の高架橋をくぐった先、川沿いの高い土手を相変わらずの遅さで走る私をも、辛うじてその名で呼べるだろう春雨は等しく洗っていった。
 決まった時間に起きて、変わり映えのない一日を過ごし、夜を迎え眠りについて・・・そうやって茫漠の果てに追い遣った時間たちを、私はいつからか覚えていない。
 何処かにあるはずと信じた何かから逸らしたのは、目線だけにとどまらない。諦めとか慰めとか、溜池の澱みより遥かに黒ずんだ方へ身体ごと向けた私は、苛立ちに沿われ不快感とも不満ともつかない、手繰るべき端すらそもそも無いような粘性の膜に縋りつかれていると言ってもいいだろう。
 雨が降る。ただ、洗われた。
 それは耳に届く街の喧騒の印象を変え、何もないとしか感じられない空気の層の、その何もない虚空の印象を変え、それら印象を捉え直した私自身の印象までも変えたようだった。透き通ったような、澄んだような彩りで鮮やかに染め上げていったのだ。
 降り始めよりは幾分その存在を主張しながら、柔らかな雨は呆気なく去って行った。背景は未だ土手のままだったが、私の見据える風景のそこここはちらちらと輝いている。
 何を得るわけじゃなく何もないまま、私はほんの二十分前には欠片も感じられなかった清々しさを両手に余らせていた。体中を這う精神的、身体的な一切の疲弊から解き放たれた気さえした。
 肌を感じる程にはじっとりと湿ったシャツもジーンズも、紅みを帯びてゆく夕日の暖かさに歯痒さを感じさせながら乾いてゆく。まだ湿度をとやかく言う程には、時季は正しさを忘れていない。
 駐輪場に自転車を停める頃にはもう、肌を泡立たせる心地よさは薄れ、次第に肌寒さが嫌悪感を騒がせ始めていて、同時に清々しさもその冷厳な側面を浮き彫りにするかのように、消えつつあった。
 電車を待つホームから見上げた空の気配に、虹を望んでもいいような気分だと思い、代わりに見つけた一番星に意識を殆ど奪われていた。それほどに情緒だとかいうものと戯れたい心持ちであったことを、誰かにその放心を問われれば、きっと私は恥ずかしげもなく主張しただろう。
 何もないままを晒された私を既に遠くに思いだし始めながら、素敵だと素直に思えるひと時をくれた春雨のことを想い、そして暫くしてやってきた電車に私は、何もない日常を思い出すかのような自然な足取りで乗り込んだ。

※この小説(ノベル)"雨の役割"の著作権はかんばらさんに属します。

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